光厳寺の沿革について


 如日山光厳寺(にょにちざんこうごんじ)は承応2年(1653)、上野村を統治していた旗本である大久保藤左衛門忠次が父の九郎兵衛忠元の菩提を弔うために開闢された法華宗陣門流の仏教寺院である。猶、ご開山は法華宗の碩学である智門院日求聖人の徒弟、了玄院日暁聖人である。

 山号である「如日山」は法華経如来神力品第21の「日月の光明の能く諸々の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅し。」、寺号である「光厳寺」は大久保忠元の戒名である「光厳院殿」が語源となる。

 尚、天保8年(1837)・明治15年(1882)の火難により本堂・庫裡共に灰燼に帰している。しかし、宝暦13年(1763)創建の山門と寛政5年(1793)建立の鬼子母神堂は二度の類焼を免れた。現在の本堂は大正9年(1920)、中興の祖である性修院日要聖人の尽瘁によって再建された伽藍であり、今日に至るまで輪奐の美を放っている。